目次
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富樫春生と申します。お元気ですか?
ーまずは自己紹介からお願いいたします。
こんにちは!富樫春生と申します。お元気ですか?(←眉毛ピクピク笑 井上陽水さんのモノマネ)
朝晩は、秋の風がちょっとしますね。夏の名残を惜しみながら、もう9月に入りますね。
というわけで、富樫春生、ピアノも弾いて作曲もいたします。ありがとうございます。よろしくお願いします。
70年代後半から80年代は主にスタジオでレコーデイングの仕事に没頭。山口百恵、松田聖子らから今井美樹、SMAPまで、録音に携わった楽曲は優に1万曲を越える。85年に近藤等則IMAに参加。約10年間海外20数カ国で定期的に演奏 科学技術省の映像祭でピアノのBGMだけで語りも何もない作品『草間の宇宙/栗林慧』が内閣総理大臣賞受賞。ラルク・アン・シェルやペニシリン、CRAZE等のプロデュースも。 鬼束ちひろの復活に力を貸し、 約5年振りにオーチャードでのコンサート(ピアノだけ、後半弦がはいる)及び夏のROCK IN JAPAN FESTIVAL(ピアノとDUO)へ参加。 富樫春生wiki 富樫春生公式サイト
言葉を覚える頃からピアノ。自分の選択とかじゃなく親の選択
ーピアノをはじめたのはいつ頃ですか?また何故ピアノを選んだ理由やきっかけを教えてください
みんなバンドをやる人って、ギターとかドラムとかって中学生くらいから目覚めて、高校からバンド組んだりとかしますよね?
でもね、ピアノやバイオリンとかチェロとか弦楽器をやる人って、小さい時からクラシックをやらされている人が多いんですよ。なので、3歳から…人が丁度言葉を覚える頃からピアノを習わされていたので、自分の選択とかじゃなく親の選択ですね。親が「クラッシックのピアニスト」か「作曲家」にしようという強い意志を持って、私をピアノに向かわせたんです。
ー富樫さんの年齢の方の中で、男子でピアノをやっている方は珍しかったのではないですか?
でも、人の家に行くとだいたい玄関入って居間に行くとそこにピアノ置いてなかったですか?
ーはい、ありました。
わりとそういう感じで、子供にピアノを習わせてたんだよね。長く続いたか続かなかったのかっていう話なだけで。
お絵描きとか水泳とかバレエと一緒でさ。俺は辞めることが許されなかったので、ずっとピアノを弾いていたらだんだんピアノを弾くことが気持ちよくなってきたりとかして。
ーどうして、ピアノを辞めることが許されなかったのですか?
オヤジが俺をクラッシックのピアニストか作曲家にするんだ!っていう強い意志を持っていたから。オヤジは歯医者と二本立てなんだけど、現代音楽の評論家なんだよね。だから、
自分の息子には、演奏家か作曲家になって欲しいっていう強い願望があった
からね。
お小遣い制のピアノの練習からピアノを弾くことが気持ちよく
ーピアノの練習をするとお小遣いがもらえてたって話、聞かせてください。
「ピアノの練習を30分やったら小遣いが5円もらえる」
必ず1日2時間は練習やらなければいけなくてね。先生に言われたメソッドを家でやると必ず2時間はかかるからね。だから、毎日20円のお小遣いを1ヶ月で600円もらうっていう話ね。そうでもしないと、ピアノの練習しないからさ。
ーいつぐらいからピアノを弾くことが気持ちよくなったんですか?
なんかね、小学校6年生くらい。まぁそれまでも「春生ちゃん、うまい!うまい!」とか言われて。
クラッシックのプロを目指す小学生
ー音楽教室や音楽系の学校に通ったというより…
子供の時から、普通の町のピアノ教室じゃなくて、はなから専門の人が行くような先生のところへ行ってたの。
だから、そこに来るような生徒はプロを目指しているような人達だったの。そこで、お上手!お上手!とかって褒められて、調子に乗って。
段々難しい曲が弾けるようになってきて、
小学校6年生くらいでベートーベンの難しいソナタとかを弾けるようになって。
弾けるようになってきたらすっごく気持ちよくなってきて。弾けるようになると、
気持ちいいんだよね(笑)
ー「できる喜び」ですね。
そう!「できる喜び」ね。曲を弾いていって、曲と一体化すると気持ちよくなれるんだよね。ピアノソナタとか曲と一体化するわけでしょ。必ず暗譜させられるんだよね。だから、暗譜するまで練習する。
鬼のように、毎日練習させられるんだよね。
ー小学校6年生の時は、一日何時間くらい練習していたのですか?
ずっと2時間。中学も2時間、高校も2時間。
高校ぐらいになるとだんだん方向ずれちゃってさ、だんだんクラッシックの練習しなくなっちゃって、ジャズとかの練習しだしちゃったんだよね。
日野皓正さんをテレビで観てマイルスデイビスに目覚めた高校時代
ー影響を受けたアーティストやバンドのルーツなどがあれば教えてください
マイルスデイビスですね。マイルスデイビスのエレクトリックなものにすごく衝撃を受けて、それが高校生の時ですね。
あと、中学生の時に日野皓正さんをテレビとかで観て「すげー、カッコいい!」こういう音楽があるんだと思って、クラシック以外のものに目覚めていっちゃって。
歌を歌う人だったらフォークやったり、ギター弾く人だったらロックやったりするよね。
でも、ピアノやってる人は歌は歌わないし。今はシンガーソングライターがいますけど、ピアノを専門にやってきた人はインスト(※)の音楽をやるしかないんだよね。だからジャズをやる。高校くらいの時から、サークルみたいなのを作ってみんなで演奏していて、そこに矢野顕子がいたんだよ。
※instrumental歌の入らない楽器のみの演奏や、そのような楽曲
ーあー、矢野顕子さんですね。
そこにいた人はみんなすごく有名になっていて、井上鑑ってピンクレディーのアレンジした人とか、森泰人っていうウッドベースの人はスウェーデンに渡っちゃって向こうでスタン・ゲッツのバンドやって、国立のジャズバンドのベーシストやったりとか。
ーそれは、大学時代ですか?
高校時代。ヤマハにね、集ってる連中がいたの。
17歳の時にチックコリアっていうピアノの人の「マトリックス」っていうすごい難しいのを「富樫くん、これコピーできるかい?」って言われてコピーしてみたんだよ。そしたら凄いって驚かれて、コンテストに出なさいって言われて。
ヤマハのライトミュージックコンテストジャズ部門へ参加
ーヤマハのコンテストですか?
ヤマハのライトミュージックコンテストっていうのがあって、そのジャズ部門に出たの。
ーそこで賞を取ったのですか?
100点!100点! 0点で、全国大会に進めなかったの。
ー0点?!
それで審査員特別賞をもらいました。
0点をつけた人は、前田憲男さんっていう有名なアレンジャーでピアニストの人なんだよ。天才アレンジャーと言われた人なんだけど。
コンテストをやる前に、その人が審査員をやるって知らずにオリジナルの曲を見せたら、「君は山下君好きなのかね?」って言われて。「はい!山下洋輔さん大好きです」って言ったら「この曲は山下君に見てもらった方がいいな」って言われたんだよね。
アバンギャルドだったわけよ。前田憲男さんは、そういうの大っ嫌いなわけよ。山下洋輔さんのこと大っ嫌いなんだよ。
コンテストは、平均点が70点だと全国大会に出られるんだけど、自分が10点でもやったら平均点が70点になっちゃうから、全国大会に出さないために0点にしたんだよ。自分の好みで、好き嫌いで0点つけられて(苦笑)
ーそれは、後日談でわかったってことですか?
審査員が審査した紙をもらったから、前田憲男さんが0点つけてたってわかったんだけど、すげー腹立った。
ーこれ、記事にしちゃっていいんですか?(笑)
わかんない。いいんじゃない?もう亡くなってるし。
その後、
前田憲男さんにはスタジオミュージシャンとして、仕事いっぱいもらったんだよね。
だから多分、ピアノを弾く腕としては「こいつは確かだ」って思ったんだろうね。
お前の音楽性は嫌いだけど、譜面通りちゃんと弾けるであればそれでいいって。
大貫妙子のレコーディングやったりしたよ。
ー前田憲男さんの話、はじめて聞いたような気がします。
ヤマハのライトミュージックコンテストで特別賞を受賞した話も、あまりしていないのではないですか?
昔はその話、しなかったからね。
JAZZとの出逢いについて
ー音楽教室や音楽系の学校に通っていたのではなくて、プロ養成の場所に行っていたということですね。
さらに、中・高・大学はバンド活動というよりは、ヤマハで集っていたと。
中学くらいから、「ナベサダとジャズ」っていうラジオ番組をやっていて、ちょっと夜更かしして聞いていたらジャズっていう音楽を知って。
その時は、ナベサダはあんまり好きじゃなかったんだけど、ナベサダがボサノバに傾倒していて「イパネバの娘」を流したんだけど、恐らく日本で最初に「イパネバの娘」を流したんじゃないかなと思うんだけど。
この曲すごく好きだなと思ってね。それから、「ナベサダとジャズ」をよく聞くようになって高校生くらいからどんどんジャズの方に行っちゃったんだよね。
オヤジはもう怒りまくっちゃったんだけどね(笑)
ーそれは怒りますよね(笑)
「ナベサダとジャズ」というラジオ番組の影響で、ジャズに行ってしまったんですね。
ーナベサダさんとマイルスデイビスでは、ナベサダさんの方が先ですか?
そうだね。ナベサダ(渡辺貞夫)の方が先だね。
ジャズを聴くと当然だけど洋楽を聴くようになって、マイルスデイビス(Miles Dewey Davis)の「Bitches Brew」っていうエレクトリックなやつを聞いて影響を受けて「なんだこれ?!めちゃくちゃかっこいい!!」と思って。
それから時代をさかのぼって、マイルスデイビスの音楽を聴くようになったら、「ハービーハンコック」とか「チックコリア」が演奏してて。
17歳のときに「これをコピーしてごらん」って言われて渡されたのがチックコリアの「マトリックス」だったから。その繋がりでハービーハンコック、チックコリア、マイルスデイビスのバンドですっごくかっこよかったら、こういう風に弾けるようになりたいと思って。
ーそれって17歳くらいですよね?すごい!
渋谷の「オスカー」アバンギャルド系のジャズ喫茶
ー中高、大学でバンド活動されていましたか?
高校三年生の17歳くらいからだんだん認められるようになってきて、18歳の時に渋谷の「オスカー」っていうアバンギャルド系のジャズ喫茶に初めて出て。(※オスカーは残念ながら今はありません)生まれて初めてジャズ喫茶に出て。
大学生になってからバンド組んで、ピットインでマイルスデイビスのエレクトリックのものまねバンドみたいなのをやって。
ツインドラムにツインベースでやってたんですよ(笑)
ー(笑)ステージに機材が乗らないじゃないですか。
乗るんだけどね。ツインドラムにツインベース(エレキとウッド)、トランペット、ピアノ(富樫さん)、フェンダーのローズを使ってたから、それとあとリングモジュレーターかまして(繋げて)「ウィーン♬ウィーン♬」ってやってたんだけどね(笑)
それで3ヵ月くらい演奏して「来月のスケジュール決めたいんですけど」って言ったら、
「うちはな、ロックはやってないんだよ」
って言われてクビになった。
ー今の私達からしたら(アバンギャルドジャズで、)ジャズなんですけど、あのころはロックだったんですね。
でも、その後いろんなバンドに誘われて、色んな人に呼ばれるようになったんだよね。
ーそれは、プロとして活動するきっかけになったということですか?
モダン・ジャズ全盛期にトラッド・ジャズを聴かせた2軒のジャズ喫茶
プロとして活動しはじめたきっかけや経緯
ープロとして活動しはじめたきっかけや経緯や教えてください
実は、大学生の時にすでにプロとして活動してたんだよね。
ーそれはピットインで演奏していたやつですか?
いやそれではなく、人のバックバンドをやったりとか。
「テントウ虫のサンバ」っていう曲が大ヒットしたチェリッシュっていうフォークデュオがいて、その当時鬼のように売れてたんだけど、そのチェリッシュのバックバンドをやってたんだよね。
ーすごい!それは大学生の時ですか?
今でも弾けますか?赤、青、黄色の♪~(歌い出す♪)ですね!
あっ、そうそう!よく知ってるね。
ー小学生の時に流行りましたよ。
ある時さぁ、ツアー先で俺学生証を落っことしちゃったみたいで、スタッフの人がそれを拾って「富樫って学生だったのか?!」って言われて、クビになるかなと思ったけどクビにならなかったよ。
ーチェリッシュさんのバックバンドをやるきっかけは、何だったのですか?
なんだったかな?忘れちゃったなぁ。色んな人に呼ばれてキーボードやったりとかしていて、今でもいろんな人が歌手に呼ばれてピアノを弾いたりするじゃない?バックバンドやサポートとして。最初のきっかけは忘れちゃったけど。
プロになった人は気がついたらプロになってる
ーやっていたら声を掛けられて、やっている間にプロになっていたという感じすよね。
そうそう。どんどん仕事が広がっていったという感じ。
ー気づかないうちにプロになっちゃうんですよね(プロに)なる人は…ですね!
決意:自分のやりたい音楽しかやらない!
ー自分のやりたい音楽しかやらないと決めたのは、いつ頃ですか?
ずいぶん前からで、スタジオでの仕事をどんどん減らしていってバンドをやるようになってから強く思えてきて83年くらいからよく海外に出て行くようになって、それをきっかけに「海外でやりたい!」と思うようになって
85年に近藤等則と知り合ってIMAバンド結成されたわけ、それで結構、世界中を回るようになって忙しくなってきて、自分の好きなものしかやらなくなったな。
スタジオの仕事はちょこちょこっとやってたんだけど、二人のアレンジャーの仕事を受けていて、後藤次利と大村雅朗で、その頃2人ともめちゃくちゃ売れてたんだけど、ツアーの合間にそういう仕事をこなしたりしていたんだよね。
じゃー、自分の音楽で食えるのかって言ったら、なかなかそれは難しいからね(笑)
みんなに認知してもらって、良いって思ってもらうしかないからね。どうやってやったらいいのかはわからないけれど、良いって思ってもらえるように、物事をもっていかなければいけないんだよね。
自分の好きなことだけをやるってなったら、誰にも責任は被せられないからね。全部、自分だからね。
ーちょっと下品な質問をしてもいいですか?
いいよ。
ースタジオミュージシャンをやっていたのが83年までですよね。
IMAバンドは、85年から93年まで。
94年に今井美樹やって、95、96、97年と3年間布袋バンドやってた。
86、87年くらいだったかな。MAOっていうるり(塩井るり)と2人でニューヨークと東京を行ったり来たりして、バンド作ってまた自分の音楽をやっていたな。
ーここ最近の生活の中での音楽の比重はどれくらいですか?
ここ10年位は9割が自分の音楽活動、1割が人の仕事。
それ以前80年代後半から90年代は自分の音楽7割、
日本に帰ってきた時にちょこっとスタジオで演奏するくらいが3割かな。
ーIMAバンドは自分の音楽をやっていた場所ですか?
そう。IMAバンドは自分の音楽をやっていた場所だから。
(塩井)るりとやってるのもそうだけど、IMAバンドも自分の音楽ができる場所だった。
そこで、好き放題させてもらった(笑)
83年くらいまで、一時期、スタジオの仕事が忙しすぎてライブ活動ができないことがあったもん。
2~3年くらいあったかな。
ー高校生くらいまでは、自分の好きな音楽しかやってなかったんですよね。
高校生くらいまでは、それで飯食うわけじゃないから好きな音楽しかやってなかったね。
ー会社は一年で辞めたんでしたっけ?
そうそう、一年。
音楽で生活できるかどうかは、かけだったからね。飛び込んでみないとわからないから、飛び込んでみようと思ったら、
最初の半年から一年くらいは仕事がなかったけど、スタジオの仕事始めたらあっという間に忙しくなってね。
ー山口百恵さんの曲をやっていたころは?
76~78年くらいだね。
俺が20代の終わりの頃だね。
ーその頃は、自分のバンドはあまりやっていなくてスタジオミュージシャンの仕事をやっていたっていうことですよね。
そう。
ー先ほどおっしゃっていたように、認知度が上がって自分の音楽ができるようになっていき、ご自分のフィールドを増やしていって、今があるということでしょうか?
「求めよ。さらば与えられん」
っていうことだよね。
心の底から自分の人生を「こういう風にするんだ」と強い気持ちを持てば、与えられるってことだよね。
今、音楽活動をしている中で⼀番大事にしていること
ー本当は、布袋さんとか今井美樹さんとか90年代のすごく忙しくされていた頃の「スペシャルなお話」をお聞きしたいのですが、第二弾という形でお願いしたいと思っています。
(※富樫春生さんのインタビュー第二弾も予定しておりますので、ご期待ください!)
サポートミュージシャンやレコーディングミュージシャンの時代を経て、現在ご自分のバンドは7個くらいですか?
8個になっちゃった(笑)
なんだろうね(笑) 増やしたくないんだけどね、8個やってる。
音楽活動をしているなかで一番大切にしていることは
「無心」かな。「無心」
ーそれさえも意識することなく、自然過ぎて改めて一番大事にしていることって言われても「えっ?!」って言うくらのことなんですね。きっと。
「えっ?!」って言うほどのことではないけれど、何だろう?って思っちゃったね。
要するに例えばさぁ、演奏している時はそこに自分がどれだけ入り込むか、入り込めるか。
そこに入り込んだら自分を俯瞰して見る、やりながら上から自分を見ている感じ。入り込んでるんだけど、非常にクール。
ーわかります!
音楽は常に一体化しているので、音楽しかやってないし音楽しかできない身体になっちゃったからさ(笑)
他になにかできる体になってないからさ。
ー幸せじゃないですか!何をおっしゃってるんですか!
だから、こんな頭ができるんだけどね。(現在ドレットヘア)
ー髪の毛、足りなかったら編めませんから。
老若男女、すべての人に聴いて欲しい
ー富樫さんの音楽が、どのような⼈に届いてほしい、聴いてほしいなどはありますか?
すべての人に聴いて欲しいですね。老若男女、全ての人に聴いて欲しいです。
そう思ってやっているので、そうなるだろうなと思います。全ての人と言っても、地球上の人すべてと言うわけではないけれども、新しい人や見たことがない人がお客さんに来ているから、少し認知度が上がったのかな。
ライブやリリース注目情報
ーこれから控えている注目情報(ライブやリリースなど)があれば教えてください。
9月15日梵鉾っていうFUNKBANDで、
代官山の「晴れたら空に豆まいて」で演奏するので皆さん来てください!約1年ぶりです。
2022年9月15日
梵鉾!(田中邦和、西薗まり、タツ、サクラ、富樫春生)
サイモンガー・モバイル
ジャズフラミンゴ
代官山の「晴れたら空に豆まいて」
open/start 19:00/19:30
最後に…プロとしての活動を目指している方へ
ー最後にこれからバント、ミュージシャン、プロとしての活動を目指している方へメッセージお願い致します。
現在、少子化ではありますが、小中学生で音楽をやってバンドをやりたいプロになりたいと思っている子供達が大勢いると思います。
音楽系の専門学校に行く人、音楽学校(大学)に行く人、富樫さんのようにプロになりたいという人のためのプロ向けのレッスンへ通う人など、いろいろな形で音楽をやっている人がいると思います。
それぞれの思いやきっかけがあってプロを目指している人がいると思います。
富樫さんから、その人達に向けてのメッセージをお願いします。
「初志貫徹!」「継続は力なり!」
それだけです!!!
初志貫徹に関しては、何が貫徹なのかは死ぬまでわからないんだからさ。
そういう風に思えるのであれば、そういうことなんだなと思って。
自分がやりたいことだけをできるような環境に自分を持って行く
ということは大変なんだけど。
結局音楽をやることも、サラリーマンをやっている人と比べると、自分というものを突き詰めやすいんだよね。
自分の中に深く入っていかないと、音楽ってできないから。
そういった意味で音楽をやるという事は自分の人生が深くなっていくんで良いと思います。
ーどんなに楽か…音楽だけで暮らせていけたら (笑)
楽じゃないんだよ。大変なんだよ。
俺はさ、すごくお金を稼いでいた時もあるけど、そういう仕事はしたくないから辞めちゃったわけでさ。
自分の音楽しかやりたくないって決めたわけだから。
もちろん、それだけでは飯が食えないからちょっと人のサポートやレコーディングで演奏したりもするけれども、
そっちが専門になっちゃうと自分の音楽ができないから。
自分の音楽やりたい人は自分の音楽やるしかないから
演奏が楽しくてそれでいいって人はそれはそれで、同じ音楽をやるのでも人それぞれだから、何が正しくて何が間違っているなんてないからね。
その人が
自分で正しいと思っていることをやる
しかないな。
村上千尋 /文
ライター歴約5年の主婦ライター。子供がまだ小さいので、作業は夜。ひとりの時間に浸りつつ「音楽」「映画」を中心に「ライフハック」に関わる記事をお届けしております。
BAND Knowledge / インタビュー・構成