櫻澤 泰徳 Sakuraさんへインタビュー!【ヒーロー不在の時代】

目次

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ドラム叩きのSakuraです。

ーまずは自己紹介からお願いいたします。

ドラム叩きのSakuraです。
現在は、色々なバンド活動を行っています。経歴は。。。

オフィシャルサイト(http://sakurazawayasunori.jp/#profileで、、

90年代初頭からインディーズ界で活躍し、L'Arc-en-Cielの1stアルバムに参加し、以降4枚のオリジナルアルバムに参加(内2作はミリオン達成)。1997年に脱退後、1999年にZIGZOを結成し、2002年に解散。2003年にはS.O.A.P.を結成し、数々のアーティスト制作に携わる。2009年にはRayflowerに参加し、2012年にはZIGZO再結成とTHE MADCAP LAUGHS始動。2016年にはgibkiy gibkiy gibkiyを始動。
Sakura (ドラマー)wiki
櫻澤 泰徳 Sakura公式サイト

ドラムを始めたのは高校1年の時、7つ上の兄貴がいて。

ードラムをはじめたのはいつ頃ですか?また何故ドラムを選んだ理由やきっかけを教えてください

ドラムを始めたのは高校1年の時。

7つ上の兄貴がいるんだけど、幼少期の俺は兄貴の部屋から漏れるThe Beatles(ビートルズ)をはじめ、Queen、KISS等のロックバンドの音をよく聴いていたんだ。

小学校の低学年のとき、俺は兄貴からフォークギターを教えてもらうんだけど、コードとか訳分かんなくって。

「なんでCとかAmとかFとかのコードを覚えなきゃいけないんだ!」

って。

フォークギターの弦って硬いし痛いし、ちっちゃい手には結構しんどくて。

ーそれは小学校の何年生くらいですか?

たぶん2年生くらい。

ーそれは指が痛いですね。

ちょうど小学校4年生の時かな?Michael Jackson (マイケルジャクソン)の
Thriller(スリラー)が出たのが。

ーSakuraさん、今おいくつですか?何年生まれ?

1969年生まれです。

小学校5年生の時毎週土曜日の深夜にTV放送されていたベストヒットUSAという音楽番組があって。
そのベストヒットUSAで洋楽のヒットチャートを聴いたり、
小学校6年生くらいのときに日本で放送開始したMTVをよく観てました。

【影響を受けたアーティスト】Duran Duran(デュラン・デュラン)とか、いわゆるニューロマ。

ー影響を受けたアーティストやバンドのルーツなどがあれば教えてください

あの頃はイギリス勢が強かったから。

Duran Duran(デュラン・デュラン)とか、

いわゆるニューロマ

Culture Club(カルチャークラブ)
Spandau Ballet(スパンダーバレエ)
Kajagoogoo(カジャグーグー)
Wham!(ワム!)

ニューロマンティック

ニューロマンティックニューロマンティックスニューロマンティクス)は、1970年代後半のロンドンで、ニュー・ウェイヴシーンから派生した音楽ジャンルのひとつ。


ーザ・80年代という感じですね!

当時は、アメリカ勢はMotown soundR&Bの影響がものすごく強かったと思う。
Lionel Brockman Richie(ライオネルリッチー)とか、Michael Jackson(マイケルジャクソン)とかもどうだし。
他にはThe Cars (カーズ)とかChicago(シカゴ)とか、Bruce Springsteen(ブルーススプリングスティーン)とか根底にカントリーやR&B
っていうものがあるんだろうなぁって感じた。

それと比べてイギリス勢って、そういうちょっと土着的に感じるものが無いでしょ?
それがちょっとオシャレに見えて。

ービジュアル系の元祖ですよね。ボーイジョージとか…

あの当時はDavid Bowie(デビットボウイ)とかが「Let’s Dance/レッツダンス」を初めて聴いた時、アメリカに進出を意識したのか、それまでの楽曲達とは違うものに感じたな。

当時はアメリカ勢もイギリス勢も一見しただけでどちらのアーティストかが分かるほど、各々で独自のものがあったような気がする。

現在のアメリカ勢の音楽は、カントリーやR&Bなどの土着的なものから逸脱した色んなジャンルの楽曲が産まれていると思うのだけど、どうなんだろう?

個人的に、90年代から現在にいたるアメリカのアーティストの楽曲って、特有の開拓心がそうさせるのか、とても最先端で独創的な印象があるよね。

Eurythmics(ユーリズミックス)の“Sweet Dreams”という曲があって、何処か不気味なおどろおどろしさがあるんだけどオシャレな曲なんだ。

その曲をMarilyn Manson(マリリンマンソン)がカバーすると、アレンジとアプローチがメーター振り切っちゃっているから、不気味さとおどろおどろしさが物凄い強調されてオシャレさ皆無という…。

アメリカってそういうのあるよなと思って(笑)。

話が反れましたが、Duran Duran(デュラン・デュラン)のベースのJohn Taylor(ジョン・テイラー)がかっこいいなと思って。
挫折してたギターは和音があることがまず嫌だったから、ベースをいじるようになって。
ベースも結局友達から借りてきたのかな。

ずーっとDuran Duran(デュラン・デュラン)のベースのコピーを1人で黙々と練習していた。

ーDuran Duran(デュラン・デュラン)のコピーはいつからやっていたのですか?

中学生の時です。中学生の時にちょっとだけベース。
ドラムを始める前くらいまで。
結局、ベースだのギターだのを弾いていても、自分的になんだかピンとこなくて。
それからドラムに興味が湧いてくるようになったんだよ。

ドラムが簡単そうに見えたから。

一番簡単そうに見えた!これはドラムの良いところでもあり、誤解されるところでもあるけどね。

ーえー?!簡単じゃないですよーー。手と足がバラバラで。

これはドラムの良いところでもあり、誤解される悪いところでもあんだけど、
打楽器である特性上、音楽の知識や楽器の知識がなくても誰でも音が出せるでしょ?

例えば8ビート一つとっても、右手で持ったスティックでハイハットシンバルを4回叩く動作をして、
その4回の動作のうちの3回目のタイミングに合わせて左手に持ったスティックでスネアドラムを同時に叩く、
両手の組み合わせたリズミカルな動作に合わせた足踏み動作をバスドラムをフットペダル上ですれば、

シンプルな8ビートが完成みたいな。

音楽的ではないけど、ダンスの振り付けをするかのように規則的な動作を活用すれば、
ある程度のドラム演奏が成立するから、楽器を始める導入部としてはすごい敷居が低いと思うよ。

今風にたとえると、アーケード版のゲーム「ドラムマニア」や「太鼓の達人」みたいな音ゲー感覚で、
簡単そうに見えると思うよ。
俺もその一人だったし、やっていく中で奥深さとかあることが分かるんだけど、
ドラムを始める前には簡単そうに見えたんだよね。

小学生の時から学習塾に行かされて、中学も受験させられた。

親族で会社経営をしていて、小学生の時から学習塾に行かされて、中学も受験させられたんですよ。

ーご実家はどんなお仕事をされているんですか?

戦時中の櫻澤家は、もともとは布団屋だったみたい。
戦後しばらく経ってから、伯父さんが櫻澤家当主になってからは、呉服や宝石などを扱って、他県に支社を持つような会社に成長したって聞いているよ。

今はもうないんだけど、池袋駅から近い場所に本社ビルがあったんですよ。

俺の兄貴は長男だから、結構スパルタな育て方をされたみたいで、最終的には早稲田大学を卒業後に本家会社の役員になって、伯父さんが亡くなった後は、本家の従兄弟が二代目社長になってって感じ。

俺も最終的には大学を卒業して、親族会社の一員になる人生を歩まされるんだろうなぁと思うとすっごい憂鬱だった。

だから学生の時は、逃げ道を見つける目的で、自分がやりたい職業を探していたんです。

当時、MTVなど音楽が浸透していて、それと同時に日本のロック文化もBOOWYが台頭してきたりしてね、ロックに傾倒していくようになっていったんだ。

ーロックが市民権を得てきたくらいですよね。80年代は、洋楽を聴く人が多かったですよね。

80年代の後半からTVの音楽番組が結構あったから。
プリンセスプリンセスとかバービーボーイズとかの曲が日曜日の昼間に流れたり。

イカ天とかもあったし。
日本のロックがお茶の間にすごく浸透していたと思う。
イカ天が放送されていたのは、俺が高校卒業してからだったかな?

ーSakuraさんに言ってなかったかもしれないけど、イカ天の第一回目に出てるんですよ。(笑)

マジ?!

中学は男子校。モテたかったし、バンドやるとモテるし

自分が会社を継ぐとか受験勉強とかも嫌だったし。
中学高校は男子校だったんですよ。
モテたかったし、バンドやるとモテるしチヤホヤされるし。

Duran Duran(デュラン・デュラン)は、大きな規模でツアーやってプライベートジェットで移動していたし。

ライブのステージセットはすごかったし。

ギター弾けると学校内ではヒーローだったし、バンドや音楽には夢があったと思う!

エレキ禁止の男子校の進学校

男子校の進学校だったのでエレキ禁止だったの。
ロックとかって不良がやるものだから(事実そうだけど)、当時はね。

バンドに興味ある奴の7割以上はヤンキーだったからね。
学校内でドラムを始めようと思ったら、吹奏楽部しか選択肢がなかったんだ。

ーヤンキーでバンドというと横浜銀蝿とか全然前でしょ?その後ってヤンキーの人でバンドっていました??

自分が若い時にスタッフでついていたバンドのメンバーやその関係者の人達は元ヤンの人が多かった。

男子校!発言権がある奴は「ケンカが強い!」「面白い!」「特技がある!」

男子校ってどこでもそうだと思うけど、発言権がある
「ケンカが強い!」「面白い」「特技がある!」これだけなんだよ。

自分が高3の時には学内で一番ドラムが上手な奴になっていたから、発言権がある奴だったかもね。

高校時代は、バンドをすんごい掛け持ちやってたんですよ。

ー高校でドラムをやってた時は、学内でバンドをやってたって事ですか?

さっき行ったように、エレキ禁止な学校だから、学内でバンドはやっていなかったよ。
学外でバンド練習していたよ。

それも一つの決まったバンドをやるんじゃなくて、他校の生徒のバンドとか、何個かバンドを掛け持ちしていたんですよ。

ー何個くらい掛け持ちしてました?

スライ&ザ・ファミリー・ストーン は、サンフランシスコを本拠地として活動した、アメリカ合衆国の人種・性別混合編成のバンドである。アバコ・ドリーム名義によるシングルも2枚ある。

https://www.sonymusic.co.jp/artist/SlyandTheFamilyStone/

具体的には覚えてないけど、一時期は1週間のうち3~4日どっかのバンドでスタジオに入ってたかもな。

当時、平均年齢俺を入れても40歳のファンクバンドに誘われて。

通常とは異なるクリックの合わせ方をしたリズムトレーニング法を教えてもらった。

Dr. Beat(ドクタービート/Boss社製メトロノーム)で鳴らす一拍三連符のクリック音を
符点八分音符分の長さに見立てて、

タタタ タタタ ター ター…
で4分の4拍子をキープするとか、

クリック音を2拍目と4拍目に見立ててリズムとったり、
八分の裏に見立ててとか、三連符の三つ目に見立ててリズムをとったりと、鍛えられたかなぁ。

ーいじめのような?(笑)クリック鬼練!

でも新鮮だった。

ー勉強になりますね。正しい物(リズムの縦)が決まっているからそこにどう寄せるかで変わりますからね。

ジャンルによってはそういうことじゃないかもしれないし、正確なビートを刻む音楽もあるけど、本来生演奏のリズムはゆがむから。

リズムの正確さで成り立たせる音楽を志すじゃなくて、アカデミックな部分での練習、フィジカルトレーニングと捉えると、色んなリズムアプローチが広がるよなという意味で勉強になった。

ー1ヶ月に10個くらいでバンドやってるってことですか?
週1でやる練習するバンドが4~5個あって、単発でやるバンドもいてっていう感じですか?
曲がわからなくても、周りの演奏を聴いてサウンドを理解して叩いていれば演奏が成立するっていう感じですか?

ある意味ドラムって、譜面通りに演奏しなくてもなくても曲が成立する場合も少なくないじゃないですか?

それぞれのバンドの曲の全体像を覚えて、何となくの感覚でドラムを叩いて演奏を成立させていたんだと思う。

「俺はこの道で行く!」って決めて、全く勉強しなかった。ずーっとドラム叩いてた。


話は前後するんですけど、

吹奏楽部に入部した最初のタイミングで、先輩から「コレ叩いてみろ」と提示されたものをある程度叩けちゃったから、その気になっちゃって

「俺はもうこれでやっていこう」と思った。

ードラムの人って叩いたら叩けちゃったっていう人、多いですよね。

みんなが大学受験の勉強をしてる時に「俺はこの道で行く!」って決めて、全く勉強しなかった。

毎日のように、ずーっとドラム叩いてた。

ーご両親からは、大学へ行かないの?とかなかったんですか?

母親は…俺は末っ子なんだけど、兄貴は櫻澤家の長男としての道を歩まされていたから、末っ子は自分の好きな道を歩ませたいっていう考え方だったみたい。

ー確かに。お母さんとしてはそう思いますよね。

父親は、母親がそう言うなら好きにしなさいみたいな。

音楽教室や音楽系の学校に通われましたか?

尚美。
当時は、東京音響ビジネス専門学校っていう名前でした。

尚美学園って、昔は音大で埼玉県の上福岡にあったでしょ?

現在はそこから文京区の春日に移設にしてことになるのかな?

楽器を演奏する器楽科がある尚美学園じゃなくて、系列専門学校の東京音響ビジネス専門学校っていうところに行ったの。今は尚美学園(学校法人尚美学園 尚美ミュージックカレッジ専門学校)に統一されたのかなぁ?

ー尚美は専門学校終了時に希望すればは3年から編入できて大卒の資格がもらえるんですよね。

うん。
音楽で食っていくといっても、オーケストラの打楽器奏者を志しているわけじゃないから、音大とかに進学する考えはなかったんだ。
ただ、母親がせめて学校法人ってついている専門学校へ行けって言ったから。

ー尚美(学校法人の専門学校)に行ったら、短大卒扱いになるんですよね。

そうそう。
そうは言っても学歴っていうものがあると無いのでは、社会に出てから扱いが違うからっていう親心ですよね。
それで尚美学園系列の専門学校に入学した。

ー尚美の人は、Sakuraさんが尚美に行ったって知ってます?

知ってる人は知ってるんじゃないのかな?

ーじゃーパンフレット掲載の依頼とかありませんか?

昔いたバンドすごく花開いた時に、学祭に来てくれとか講演やってくれとかあったけど、97年のとある切っ掛けから、そんな依頼もパタッと無くなったよ(苦笑)。

中学高校の先輩は黒澤 明

黒澤 明(くろさわ あきら、1910年〈明治43年〉3月23日 - 1998年〈平成10年〉9月6日)は、日本の映画監督・脚本家・映画プロデューサー

©1963Toho Co.Ltd.

ちなみに、行ってた中学高校はウィキペディアに載ってるよ。
黒澤明氏の母校。

ー音楽学校は、ご卒業されたんですか?
高校生の時から音楽活動をされていたのなら、入学したと同時に(ドラムが)一番上手だったでしょ?

卒業しましたよ。

一番上手かだったかは分からないけど、学校内ではドラムが上手い人と認識されてたよ。

高校のときと違って、入学した生徒は音楽に志がある者ばかりだし、みんなバンドとかやってたし、俺が知らないドラム演奏の上手な生徒が同期にいたかもしれないしね。

所属してたのはPA・レコーディングエンジニア科のクラス。
当時の専門学校にプレイヤー科は無かったの。

ーわかります。私も音響芸術科でした。

今でいうプレイヤー育成みたいな学校法人の専門学校は無かったからね。

ー当時は音楽やりたいなとかバンドやりたいなっていう人は、音楽専門学校とか音楽技術学校とかPAコースとかレコーディング系、ビジネス系に進学してましたよね。

結構、音響に関してはどんなジャンルをやるにしても、ドラマーとしては知識として損はないことだから。
でも、その専門学校はすごかったですよ。

ソルフェージュ / メロディーを聞いて譜面の授業

ソルフェージュっていう授業があって、メロディーを聞いて譜面を起こす。
楽器を使わず譜面を書けっていう。
リズムはわかるけど、音程はわかんねぇやって。

MTR、YAMAHAのDX7使う授業

カセットMTRの授業があったり、DX7を使う授業がおもしろくて。
アルゴリズム作って。

ヤマハQY10もやりましたよ。シーケンサーとか。
当時はPCM音源じゃなくてFM音源だったもん。

専門学校から音楽ビジネス大手企業に就職するのは、なかなか難しかった

生徒の中にはやっぱりバンドを目指している子もいたし、本当にビジネスとしてやっていこうっていう子もいたし、
同期の中にはKORG(コルグ)のお偉いさんになっちゃった子もいるし、照明オペレーターとしてそれなりのポジションになった子もいるし。
コンサート制作会社のそれなりのポジションになった子もいたな。

同期でプレイヤーになったのは俺くらいかもしれない。

当時の音楽産業界…大手プロダクションだったり、メジャーレコードメーカーとかの雇用に関しては、大卒優先の学歴社会だったでしょ。

専門学校から音楽ビジネス大手企業に就職するのは、なかなか難しかった。

19歳。デッドエンド湊雅史氏との出会い

19歳になったばかりの頃、「DEAD END(デッドエンド)」っていうバンドのスタッフやらないか?という話が来たんだ。

ある知人が、DEAD ENDのマネージャーから「スタッフとして使える子いないかな?」と相談をされたみたいで。

その知人は、俺が高校生の時に、学校に通いながらもアマチュア、インディーズバンドとかのスタッフ(ローディー )とかやっていたことを知っている人で、俺の事を推薦したんだ。

そんな流れで、DEAD ENDのスタッフをすることになった。

アミューズ自由の女神のマークが入った2tトラックを学校の横につけて授業の後、現場に行く

当時DEAD ENDが所属していたプロダクションはアミューズだった。
ある日、アミューズの自由の女神のマークが入った2tトラックを学校の横につけて、授業受けてから現場に向かったことがあるな。

ー学校の人達びっくりしたんじゃないですか?

2年生になってからは、あまり学校に行ってなかったんだ。

学校側は「櫻澤はアミューズでほぼ内定なんだろう」という認識をしていたみたいで、足りていない単位と出席日数は、就職活動扱いにしてくれてなんとか卒業できたよ。

DEAD END(デッドエンド)は、結果的に解散になっちゃったんだけど、スタッフについてから丁度1年くらいで。

ードラムの湊さんにくっついてっていう感じですか?

うん。時々お手伝いさせてくださいっていう感じで、時々現場に顔出させてもらっていました。

ポンタ(村上“PONTA”秀一)さんのトラで湊さんが、泉谷しげる with LOSERでドラム叩く現場とかね。

清志郎さんが「君ベース弾けない?」とか言って、無理ですって(笑)

RCサクセションを筆頭に、忌野清志郎 & 2・3'S、忌野清志郎 Little Screaming Revue、ラフィータフィーなどのバンドを率い、ソウル・ブルースを下地にしたロックサウンドを展開

https://spice.eplus.jp/articles/234672

山中湖のスタジオで忌野清志郎さんと湊さんとレコーディングする現場にも行ったことがある。

あの時レコーディングされたものが、今はどうなっているかはわからないけどね。

レコーディング作業は、清志郎さんと湊さんの二人っきりで行なっていて、
清志郎さんが唄いながらギター弾いて、それに合わせて湊さんがドラムを叩くといった感じ。

レコーディング進行中に清志郎さんはドラム、ギター、唄以外の音色が欲しくなったんだと思うんだけど、

俺に
「君ベース弾けない?」
とか言ってきたんだ。

イヤイヤ、無理ですって(笑)

結局、清志郎さんのお付きの人がベース弾いて。

お前が勝手に盗めばいいじゃん。

湊さんは、何もドラムのことは教えてくれなかった。

「俺はお前にドラムを教える義務は無い」と。
湊さんは、ドラムを教えることを生業にしてるわけじゃないからね。

「お前が勝手に見て盗めばいいじゃん」と言われたよ。

ー今は、ドラム講師されてますよね。

そう今はね。

音楽家としての感性の部分ではすごく語ってくれる人

湊さんは、ドラムの手順やフレーズといった具体的なことは一切教えてくれなかった。
だけど、音楽家としての感性の部分ではすごく語ってくれる人だった。
たとえば、DEAD END(デッドエンド)のこの楽曲はどういう気持ちでドラムを叩いてますかって質問をしたりしたね。

すると湊さんは、
「俺の持つイメージは音楽的なところやフレーズがどうのではなくて映像はこうで、一人の男が立っていて…、その中に物語があってとか、静止画があってそれが続いている
とか抽象的な事を語ってくれるんだ。

湊さんの感性を知る上で、
ドラムの難しい手順やフレーズを教えてもらうより、こういった抽象的な話のほうが、俺にとっては分かりやすかったし、凄く影響を受けた。

湊さんはモノマネがすごく上手

変な言い方なんだけど、湊さんはモノマネがすごく上手。
湊さんは、自身が影響を受けたドラマー達へのリスペクト、考察力、分析力が半端ない。
35年位前に湊さんが1972年の頃のKing Crimson(キングクリムゾン)のカバーセッションに参加したことがあったのね。

俺はスタッフとしてリハーサル、本番と近くで演奏を観たんだけど、Bill Bruford(ビル・ブルーフォード)本人と思えるくらい。

使用したドラムや他機材はBill Brufordのものとは違うものだし、湊さん風味が加わってはいるものの、
チューニングやアプローチがそっくりそのままだったのを覚えている。

当時、目の前で演奏するBill Brufordは見たことはないんだけれども、
湊さんの影響で音源は聞き込んでいたから、そのそっくりさ加減をみて凄く感銘を受けたね。

 

なんかの本で読んだことがあるんだけど、演技が優れた役者さんは、自分が演じる役の生い立ち、心理、環境等を考察、分析したうえで役を表現しているそうなのね。
そんな高い考察力、分析力、洞察力、表現力を用いれば、人の特徴を把握して再現することは造作もないんだって。
要するに、優れた役者さんからすれば、著名人のモノマネとかって造作もなくできちゃうんだって。

それと一緒なんだよねって思って。

専門学校の中で学んだこと

ー専門学校の中で学んだことをお聞かせください。

音楽的なものは特になかったかもな…。

デジタル理論とか、それの核になる二進法演算とか、音響学的なもの、レコーディングやライブの際に使用されるマイクの種類とか、プリアンプの仕組み、PAシステムの組み方、コンプレッサーやリミーなどのダイナミクス系エフェクターの仕組みと活用法、リバーブやディレイやフェイザーなの空間系のエフェクターの仕組みと活用法とか、マルチトラックレコーダの仕組み、MIDIの知識、MMC、MTC、SMPTEなごの同期もの知識とか…、音楽制作に関係した外的な知識を得たかもしれない。

音楽的な知識は、吹奏楽部に入った高校生の時に楽典を一通り目は通して、なんとなくは把握してた。

一応の音楽専門用語の知識を得ることは出来たけど、じゃあ実際にどう活用するのが分からなかった。

ジャズ理論とかも知っといたらよかったなって。

たとえば、Ⅱm7-Ⅴ7(ツーファイブ)ってどういう概念なのかとか、そういうことって楽典には書いてなかった気がするんだ。

クラシックの知識より、いわゆるポップス理論の方が今の現代音楽を生業として仕事するんだったら、必要だったなって。

プロデューサーになったきっかけはレコーディングでドラムのサウンドメイキング


ーバンドマンからミュージシャン、音楽プロデューサー、ドラムレッスン(コーチング)への活動も始めたきっかけや経緯や教えてください。

当時、ギターはアレンジする上で必要になったから、その頃はギターはなんとなく触れるようになってたから。

俺の場合は、いわゆるプロデューサーとは、ちょっとニュアンスが違っているかもしれない。
最初は若いバンドの面倒をみるという目的を、レコーディングでドラムのチューニングがメインのサウンドメイキングという名目で制作に携ったんだ。

そのうちドラムレコーディングのディレクションするようになって、やがて唄以外のオケ・レコーディングのディレクション、唄録りのディレクション、しまいにはサウンドプロデューサーみたいになって、バンドの楽曲のアレンジ、さらには編集作業まで関わるようにもなっていったんだ。

自分から「よし!プロデューサーやるぞ」っていうことじゃなくて。

ー人の面倒見るのは嫌いじゃないということ?

子供の頃、学校の先生になりたかったんだ。
ドラムに出会うまでは、それなりに大学受験とか考えて、教育学部がある大学に入学することを考えていたよ。

まあ小学校か中学の先生って、なんか楽しそうじゃない?

幼い時の安直な考えだと、生徒と同じようにまとまった休みがあるだろうと思っていたんだ。

特に小学校は、勤務時間も朝8時くらいに学校に行って、遅くても夕方5時くらいには帰れる比較的楽な職場なんだろうなぁって思っていたんだ。

末っ子だというのもあってか、自分より下の世代の子達の面倒をみるのが苦痛に感じことはないし、学校の先生は適任だろうと思っていた。

BASS ON TOP / ベースオントップでドラムレッスン スタート

ドラムレッスンに関しては、はじめるまでに紆余曲折があるんだ。
10年位前だったかな、ドラムや打楽器が主役となるイベントに興味を持ち出して、いつかは主催したいなぁって考えるようになったんだ。

複数のドラム(ドラムセット)だけで成立する楽曲を作ったり、既存の楽曲をドラムが目立つようなアレンジを考えたりとかしていた。
今みたいに定期的ではないけど、プライベートでレッスンを始めたのもその頃だね。
で、2015年からドラムが主役のイベント“Busker Noir”を開催することになるんだ。

Busker Noirでは、その都度2〜3人のドラマー、その他のパートのミュージシャンをゲストに迎えていたんだ。

そもそもは、予算的な兼ね合いもありつつで都内での開催だけだったんだけど、回数を重ねるうちに、関西エリアでの開催を考えはじめるようになったんだ。

またその頃、BASS ON TOPグループで役員をしている友人Yから「Sakuraくん、うちのスタジオでドラムセミナーやってよ」と言われていたんだ。

BASS ON TOP(ベースオントップ)グループは、東京と大阪でリハーサルスタジオとライブハウスを何軒か経営している会社。

しかも本社は大阪。

Yとのツテがあれば、系列店でBusker Noirが開催できるなぁって考え出したんだ。

ちょっと戦略的だけど、関西でのイベント開催の為には、俺自身がなにかしらの形で大阪に根を張るのがいいかもと思ったんだ。

そこでYに「依頼されているドラムセミナー引き受けるよ。どうせなら、そのセミナーを皮切りに御社の大阪のスタジオで定期的なドラムレッスンやらせてもらえないかな?」ってBusker Noirの大阪開催の展望と共に交渉したんだ。

Yは快く応じてくれて、大阪でドラムレッスンをすることになったんだ。

ドラムセミナーは、小説や漫画に例えると1話完結の読み切り作品みたいなモノで、限られた時間で不特定多数を対象にしたものだから、教えたいことが制限されてしまう。

それに対して、定期的なレッスンは特定数を対象とした連載作品みたいなものだから、回数は重ねることになるけど、受講生のニーズに合わせて教えたいことを伝えることが出来るからね。

ーもう何年くらいになりますか?

今年で8年目になるのかな。
ほどなくして、東京・名古屋でもレッスンを始めたんだ。

2020年3月からは広島でもという運びになるんだけど、コロナ禍の影響で受講生が集まらなくて大変だったよ。

顎足枕が結構かかるから、行く毎にマイナス…。

それでも、定期的に通っていたよ。

こういう習い事って、受講生からしたら「今月は受講生が少ないからレッスン無し」とかいう講師よりも、定期的にちゃんと来てくれる方がいいじゃないかなぁって思っているし、定期的に継続しなければ、受講生が増えないとも思っているんだ。

そうはいっても、レッスン開催地が緊急事態宣言下だったり、自然災害の影響がある場合は、行くに行けなかったんだけどね。

レッスンは月に1回、東京・大阪・名古屋・広島で今も続いているよ。

ー1枠何人くらいですか?

1人。マンツーマン。

ー9枠あってもほぼ8時間くらい。

いやいや、9枠なら9時間(笑)。
多い時には1日12枠埋まることがあるよ。

ヒーローはStewart Armstrong Copelandスチュワート・コープランド

ポリスは、1970年代後半から1980年代半ばにかけて活躍した、イギリスのロックバンドである。ロックの枠組みの中に、レゲエの要素を加えるという斬新な音楽性は、ホワイト・レゲエとしばしば呼称される。

https://www.universal-music.co.jp/the-police/products/uigy-15007/

音楽としてはDuran Duran(デュラン・デュラン)とか聞いてたけど、ドラムを叩きたいと思ったヒーローはThe Police(ポリス)のStewart Armstrong Copeland(スチュワート・コープランド)。

あくまで個人的な見解だけど、バンドを志す若い世代の数が、一時期と比べて少なくなった印象があるんだ。

バンドというのが、昔と比べるとフォーカスが当たらない職種であり、存在になっちゃったのかなって。

たとえば今年開催したWBCでの大谷選手の活躍に触発されて、野球少年が増えたと思うし、今後も確実に増えると思うんだ。
そういうヒーローみたいな存在がいるのといないのとでは、バンド人口の数も変わってくると思うんだ。

BOOWYの存在は、日本のバンド人口を一気に増やしたからね。

 

俺が知らないだけかもしれないけど、今は「バンドやりたい!」と思わせる存在が少なくなったのかなぁ…、どうなんだろう?

活動を続けているなかで⼀番⼤事にしていること

ー今、活動をしているなかで⼀番⼤事にしていることはなんですか?

年齢的なものがあるから、最近は体調管理とかをちょっと気にしている。
やっぱり、体が資本だよね。

どんな職業でもそうかもしれないけど、体が資本。

演奏に携わる業種は尚更だよね。

一番ポテンシャルが高い、1日24時間のうちの2時間の中でどれだけのパフォーマンスを発揮するか

年齢によって体力的な衰えとかはあるけれども、その年齢で最大限の集中力とか一番ポテンシャルが高い時って、1日24時間のうちの2時間だと思っているんだ。

そのポテンシャルの高い2時間を1日のどのタイミングで発揮できるかっていうのをセルフマネージメントしておかないとダメだなって思っている。

ポテンシャルが高い2時間にするためには、基礎練

その2時間を高いクオリティーのパフォーマンスにするには、基礎練習の反復という下地が必要なんだと思っている。

その2時間をライブ本番・レコーディングのベストテイクにするってことを常に考えるようにしている。

若くて体力的に無理ができた年齢のときには、あまり気にしていなかったんだけど、

ココ最近はそうしていかないとまずいよなっていうくらい体力の衰えが現実的に(苦笑)。

ドラムベントドラムセットが複数台っていう音楽があるって言う事を知るきっかけになれば

自分が主催しているドラムイベントBusker Noirでは、複数台のドラムのアンサンブルがメインな楽曲達があって、去年11月にそれらをCD音源化して販売したんですよ。

ーSakuraさんの作品がどのような⼈に届いてほしい、聴いてほしいなどはありますか?

どのバンドでも、ドラマーってだいたい1人だよね。

それに比べて複数台のドラムのアンサンブルがメインな楽曲って、ちょっと特殊な印象を受けると思うんだ。

中東の打楽器でダラブッカ、アフリカの打楽器のジャンベを複数で奏でて成立する楽曲のようなものは存在するんだけど、ドラムセットが複数台っていうのはあんまりないんだ。

まぁ、打楽器だけで成立する楽曲自体が珍しいものだけどね。

いわゆる「唄モノ」が聴き馴染んだ人からすれば、とても特殊で独特な音楽だろうけど、こうゆう音楽もあるっていう事を知るきっかけになればいいし。

だけど「こういった音楽もある」ということを強く伝えたいというわけではなく、ただ単に音源として残しておきたいなと思ったんだ。

あくまでもCDにこだわっていて。

俺のことを支持してくれる人って、CDで音楽を聴いていた世代だと思うんだ。
そんな世代の人達からすれば、ダウンロードするよりCDの方が手っ取り早いのかなぁと思って。

「良かったら聞いてね!」っていう感じ。

このCDはSakuraオフィシャルのウェブショップで販売しているよ。

ーそこではCDとTシャツ等も売ってるんですね!

毎年、自分の誕生日に主催イベントをやっていて、その時のSakuraオリジナルグッズをウェブショップで販売しているよ。

タンブラーとか水筒とかTシャツとか。

だけど、現在はCD以外は全て売り切れてしまって…。

ー行きたかったけど、買いたかったけど行けなかった人にとっては、通販で買えると嬉しいですね。

これから控えている注⽬情報(ライブやリリースなど)があれば教えてください。

gibkiy gibkiy gibkiyは、9月と12月に東名阪ワンマンツアーが控えています。
このツアーでは9月「生き血」、12月「虫唾」の音源を会場限定で販売します。

11月20日は毎年恒例となっている誕生日イベントを開催する予定です。

内容はまだ決めかねているんだけどね。

▼▼▼公式サイトをチェック!▼▼▼
http://sakurazawayasunori.jp/event/

今後の展望、やりたいこと、目標などを聞かせてください。

2023年は、完全ではないけれども世間的にコロナ禍前に戻った年なんだろうね。

俺はそう認識しているけど、実際はどうなんだろうね?

物価の高騰とか、コロナ前とは違うことが色々あるけどね。

まぁ、自分が出来ることをチョコチョコとやって行こうと思います。

ー最後に現在音楽学校、専門学校に通われてる方、これから音楽学校に進学を考えている方、学校いかない!自力でプロになる!
と決めた方!それぞれの皆さんへメッセージお願い致します。

もしかしたら、ヒーロー不在の時代なのでヒーローになってください!
もしかしたら、ヒーローの席は空席です。
もしかしたら、今は第一人者になるチャンスかもしれません。

チャンスを受け身で待っているのではなく、自分でチャンスを掴み取りに行くガッツがある方が良いかもね。